欧米系の人が多いイメージの外国人居留地・横浜にチャイナタウン(中華街)が出来た理由

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先日横浜の中華街に行ってきました。どこにでもある日本の街の中にデンッとある門(牌楼)は中国の伝統的な建築様式でたてられていて目立ちますが、これを潜れば潜れば先程の違和感が一気に払拭、赤金黒の異国情緒が存分に味わえます。

横浜の曲といえば浮かぶのが『赤い靴』です。野口雨情が作詞したこの曲には青い目をした異人さんに連れて行かれた女の子が歌われています。山下公園にはこの女の子の像があります。

青い目をした異人さん…中国系じゃないこの風貌が歌にあるのは、もともと横浜は欧米系の多い外国人居留地だったからです。歌の中の異人さんはアメリカ人宣教師と言われています※。

※赤い靴の女の子にはモデルがいる。詳しくはニュースサービス日経 麻布十番の記事を読んでください。

欧米系が中心の居留地だった横浜になぜ中華街が出来たのか?なぜ中華圏の人々はここに街を作ったのか?今回はこれを調べました。

横浜の中華街は春節(毎年1月下旬)になると中国の伝統と文化を味わえるイベントを開催します。

外国人居留地として始まった頃は欧米系が中心

江戸幕府は対外戦略で約240年間鎖国し、日本は他国の文化に影響されることなく独自の文化を築きました。しかし、鎖国しているからと言って100%外国のものをシャットアウトしたわけではなく4カ所だけ外国と日本をつなぐ窓口を作りました。この窓口を『四口』と言いました。

  • 長崎口…オランダおよび中国用
  • 対馬口…朝鮮用(対馬藩がほぼ独占)
  • 薩摩口…琉球王国用(薩摩藩がほぼ独占)
  • 蝦夷口…アイヌ用(松前藩がほぼ独占)

この時代の中国との外交は長崎が窓口でした。長崎の中華街はこれの名残のようですが…四口でもない横浜になぜ中国人?

横浜が外国に向けて港を開くことになったキッカケはペリー提督です。四口とは違い幕府の中枢・江戸に近い横浜の開港を渋ったでしょうが大砲の前では泣く泣く開港。こうして横浜には欧米系(ペリー提督はアメリカ海軍の軍人)の人が多く暮らす外国人居留地ができました。

この外国人居留地に暮らす欧米人の使用人は中国系が多く、また中国商人(買弁)もたくさん出入りしていました。中国企業や銀行の海外進出(主に貿易)をサポートする買弁は一様に外国語が堪能で、人脈も豊富であり政治的センスに優れていたと分析されています。

横浜に上海・香港とむすぶ定期船航路が開設される

外国人居留地の中国人は広東省出身者が多く、横浜には上海や香港(当時はイギリス植民地)との間に定期船航路を開設されます。これで中国人の数はどっと増えました。

彼らは居留地の一角に関帝廟を建設。関帝廟は三國志の英雄の一人・関羽を祀るところですが関羽の武勇を崇めているのではなく、そろばんを発明したという関羽の俗説から商売繁盛を願っています。他にも彼らは中華会館、中華学校などを作りました。

こうして中華街の形はできましたが、まだこの時点では外国人居留地の一部でしかありません。外国人居留地には日本人や欧米人が営む店が多く並び、中国人の店はまだまだ少なかったようです。

居留地の構成が中国系>>欧米系になったキッカケ

中華街が形成されて約30年後に日清戦争が勃発しました。多くの中国人は祖国に帰国しましたが、戦争が終結するとまたたくさん日本にやってきました。

外国人居留地で生活する中国人>>欧米人となったきっかけが関東大震災です。この災害で多くの欧米人は帰国して戻らず、残ったもしくは戻ってきた中国人により街はものの見事に約10年で復興しました。こうして中国人が中心の街ができたのです。

横浜(港)が他の地域にはないほど賑わったのが第二次世界大戦後の復興期です。戦勝国だった中国は貿易を盛んに行い、横浜港には中国からの物資が大量に届いたようです。

それから10年。

外国人居留地だった街の入口に牌楼が建てられ、その門の上には『中華街』と書かれた看板が掲げられています。それまでは南京町や唐人街と呼ばれていましたが、これを機に中華街と呼ばれるようになりました。

日本人がジャパニーズタウンを作らない理由

異国に移住する人は世界中にいますが、そんな中でも比較的中国人は一定の地域に集中して中国人が多い街を作ります。

でもハワイに移住する日本人が多くいても『日本人街』なんて世界中どこにも聞いたことがありません。これは日本人と中国人の気質の差、歴史的背景による気持ちの違いがあります。

日本人の場合は『郷に入ったら郷に従え』が基本。そこに自分の骨を埋めるつもりでその国の文化に染まることを良しとしています。一方で中国人の場合は良くも悪くも中国の文化を尊重し、異国でも自分たちの中国の価値に基づいた街を作ろうとします。

個人的に中国の人は我が強いと感じます。

そんな彼らの気質の背景には色々な統治者の下で様々な文化を形成してきた歴史があるようです。国が変わって統治者が新しくなるのが常であり、その統治者は基本的に外国人または全く違う気質の中国人。中国は統治国が変わるたびに思想や文化は一変させてきました。だから『自分は自分』と言う気持ちでいないとわけが解らなくなるのです。
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我が強いから中国全土に小さな国がたくさんできた、という考え方もできる

一方で日本の場合、統治者が変わっても新しい統治者はやっぱり日本人。しかも大阪から東京の範囲内。価値観が違っても基本は類似していて、過去も混ぜ合わせながら発展してきた歴史があります。

中国系の人が色々な国に中華街を作る理由

移住するときに日本人は『新天地』という単語を使いますが、どこに行っても中国人という考えの中国系の人々は海外に移住することに対して日本人よりハードルが低い傾向があります。

外国に移住した中国系の人々のことをよく『華僑』と言います。これは中国籍を持つ漢民族を言い表す言葉です。つまりどこに行っても彼らは漢民族なのです。

華僑の人々を”強い”と感じさせるのが『三把刀』という考え。3つの刀(把)とは、ハサミ、包丁、剃刀のこと。つまり裁縫、料理、理容の職人ならばどこでも生きていけるという考えです。

外国に移住した中国系の人々は、その地である程度の生活を築くと親族や同郷者を集めて互いにサポートしあう『互助会』を形成します。こうすることで今後も中国から人が来やすい環境が作られます。

横浜の中華街に中国の地名が付けられた通りがたくさんあるのはこのような互助会の存在の影響で、そこで暮らすのはその地域出身者が多いです。

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