高崎市の中央を東西に横断するように作られた用水路・長野堰が世界かんがい施設遺産に登録されたと広報誌にあったので早速行ってみました。
用水路に沿って自転車・歩行者しか通れない遊歩道があり、子どもを好き放題に歩かせることができました(交通量はとても少ないですが、車が通る部分もあるので注意は必要)。
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世界かんがい施設遺産とは?
2016年11月、タイのチェンマイで開催された国際かんがい排水委員会の国際執行理事会において、長野堰が「世界かんがい施設遺産」に登録されたそうです。
国内では長野堰を含む14施設が認定されました。
「灌漑」とは農地に外部から人工的に水を供給することで、かんがい施設を作ることは社会を大きく発展させてきました。
かんがい施設を作る
↓
農地の生産性が高まる
↓
余剰生産物が産まれてその他の職業が発展する
↓
国庫が潤い、軍隊の維持費用や王侯貴族の生活費になる
「世界かんがい施設遺産」とは、建設から100年以上経過した、歴史的・技術的価値のあるかんがい施設を指します。
農林水産省によると、登録することによりかんがい施設が持続的に活用・保全され、研究者や一般市民への教育の機会となり施設の維持管理に関する意識が向上することが期待されるそうです。
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長野堰の歴史と特徴
長野堰の造成は約1100年前と言われており、戦国時代の箕輪城主・長野業政公(1491-1561年)が現代の形を作ったそうです(伝説では長野氏の祖先は伊勢物語の主人公・在原業平とか)。
高崎の街は台地になっており、一級河川である烏川と井野川に挟まれていながら水に恵まれない不毛の地でした。
平安時代にこの地を治めていた長野氏はそんな高崎に長野堰を作ることにより、烏川の水を高崎市内に引き込んで農業生産を向上させ市民生活の基礎を築きました。
約600年後に長野業政は現在の原型を作ります。
世は戦国時代で高崎の支配者はその後変わっていきますが、用水路は延ばされ整備が続けられたようです。
やがて用水路なので必要に応じて分流していきます。
しかし、水は市民生活の基盤となるため、「どれだけ水を分けてくれるか」をいうのは争いの元だったようです。
長野堰も下流(城東小学校南側の地点)で4つの水路に分流しますが、やっぱり揉めたようです。
それを解決したのは「円筒分水堰」で、円筒分水堰はサイフォンの原理を利用して水量を公平に分けるという斬新なシステムとなっていました。
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