平安時代からの歴史が残る妻沼聖天山(熊谷市)

★未分類★
★未分類★
この記事は約5分で読めます。

熊谷市の『妻沼聖天山』に行ってきました。

お目当てはこの地域独特の細長い形状の名物、200年以上の伝統がある稲荷寿司『聖天寿司』を扱っている店は周辺に3つあり、写真の聖天寿司は聖天山の中門の傍にあるお店のものです。

細長い形状の稲荷寿司と巻き寿司がセット(助六寿司)

聖天寿司は稲荷寿司と巻き寿司の、いわゆる「助六寿司」です。

日本のあちこちで聞く「助六寿司」。

この助六寿司の名前の由来となった『助六』は歌舞伎十八番の1つ「助六所縁江戸桜」の通称で、主人公の助六の愛人で吉原の花魁だった揚巻に由来しています(揚げ=油揚げの稲荷寿司、巻=海苔で巻いた寿司)。

「妻沼聖天山」は一般的な呼称で埼玉県内ではこの名で親しまれていますが、正式名称は「歓喜院長楽寺」といい高野山真言宗の仏教寺院です。

「聖天」は歓喜天の別名で、歓喜天とは仏教の守護神である天部(天界に住む人たち)の1つです。

妻沼聖天山は「日本三大聖天のひとつ」と言われていますが、聖天を祀る代表的な寺院は6つ。

『三大聖天』は東京都台東区にある「待乳山聖天(本龍院)」と奈良県生駒にある「生駒聖天(宝山寺)」とあと1つという組み合わせになっています。

[su_label type=”info”]スポンサードリンク[/su_label]

聖天山を作った齋藤実盛は平源時代を生きた武将

歓喜院に伝わっている話では、妻沼聖天山はこの地方(長井庄)を本拠としていた武将・齋藤(別当)実盛が1179年に建てた聖天宮が始まり。

実盛は聖天宮に守り本尊の大聖歓喜天を祀り、長井庄の総鎮守としました。

平源時代を生きた武将「斎藤実盛」

実盛は勇猛果敢な武将であり、温厚篤実な性格による人徳は平家物語を始めとして数多くの史書に称えられています。

実盛が聖天宮を建てた1179年の日本は平安時代末期。平清盛・重盛親子の時代ですが、平家の最後となる壇ノ浦の戦いが1185年なので平氏の時代の末期、日本のあちこちで戦いの狼煙が上がっていた時期になります。

いまの埼玉県がある武蔵国は、源義朝(源頼朝と義経の父)が本拠とする相模国と、源義賢(木曾義仲の父)が進出してきた上総国の板挟み地帯。変化の激しい時代だったので実盛は何人もの主君を渡り歩いています。

実盛の主君遍歴は、 源義朝→源義賢→源義朝・義平→平氏(平維盛) 、こんな感じ。

最後は平維盛の後見役で、高齢でしたが進軍して、源義仲に討たれています。

稲の切り株につまずいてきたところを討ち取られたといわれるため実盛は稲を食い荒らす害虫になったという言い伝えもあり、稲虫(とくにウンカ)は実盛虫と言われます。

幼い木曽義仲(駒王丸)を救った

斎藤実盛を討った木曽義仲にとって、実は実盛は義仲にとって命の恩人です(自分の討った将軍が実盛と知った義仲は涙にくれたという話もある)。

木曽義仲(源義仲)は埼玉県の生まれなので、嵐山町周辺には義仲にちなんだ史跡がいくつかあります。

まず、義仲の父である義賢の妻は秩父重隆の娘。

秩父氏は娘婿である義賢に武蔵野国比企郡大蔵館を与え、義仲はそこで生まれたと伝えられています(義仲の生母は遊女といわれているので秩父氏の孫ではないらしい)。

武蔵野国が義賢派となったことに黙っていられなかったのが相模国の源義朝と義平親子。実盛もこの頃は義賢を主君としていて、その義賢は大蔵の戦いで義平に討たれます。

このとき義仲(駒王丸)はたった2歳、直系のため殺害命令は出ていましたが畠山重能や実盛の計らいで信濃国(いまの長野県木曽町)に逃れることができました。

ちなみに一緒に働きかけた畠山重能は畠山庄(いまの深谷市)の武将です。

[su_label type=”info”]スポンサードリンク[/su_label]

鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝も妻沼聖天山を参拝

鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝は下野国に向かう途中で聖天宮を参拝。

このとき実盛の二男で出家していた実長(良応僧都)は聖天宮の修復と別当坊寺院建立を願い出て赦され、5年後に改修と別当坊歓喜院長楽寺の建立が行われました。

時代が変わって室町時代になると、第12代忍城主成田家時によって聖天堂が再建されます。

聖天堂は国宝に指定されていますが、聖天堂は江戸時代の大火(寛文の大火)で消失しているため、現在の聖天堂は江戸時代中期(1750年頃)に再建されたものです。

[su_label type=”info”]スポンサードリンク[/su_label]

江戸時代から残っている聖天山の中門と貴惣門

聖天山の中門(甚五郎門)は江戸時代の大火の被害を免れたもので、聖天山の建造物群の中でも最古のものと言われています。この門の柱には1910年(明治43年)の大洪水の痕跡を残しています。

聖天山には同じく江戸時代から残っている貴惣門があります。

貴惣門は屋根を上下二重とし、下の屋根は前後に2つの切妻屋根を架けているため横から見ると3つの破風をもつ特異な形の門です。

こんな形の貴惣門は日本に4つだけ(他は大阪市の四天王寺東大門、岡山市の豊楽寺仁王門、弘前市の誓願寺山門)。

[su_label type=”info”]スポンサードリンク[/su_label]

歓喜天(聖天)は縁結びの神様(夫婦和合・子授けの神)

安くて美味しい蕎麦屋「みよし」のざるそば

妻沼の街を歩いていると「縁結び」をよく見かけます。

昼時なので入った蕎麦屋さんでも縁結びセットとか何とか・・・聖天山に祀られている歓喜天はこんなご利益のある神様。

  • 除病除厄
  • 富貴栄達
  • 恋愛成就
  • 夫婦円満
  • 除災加護

最澄が定めた六天講式では「歓喜天を信仰して貧乏を転じて福を与える術を行うべき」と述べ、「貧乏人でもこの神(歓喜天)の名を聞けばたちまち裕福になり、卑しい地位の人間でも高い地位につけるであろう」と述べています。

恩恵は楽に享受できず、歓喜天は利益もさることながら恐ろしい神でもあります。

俗に「歓喜天は人を選ぶ」といわれ、非道な人間には縁を結ばないし、いい加減な供養をするとかえって災いがあったり、子孫七代の福をも吸い上げるなどの迷信があるそうです。

[su_label]ー この記事はここで終わりです -[/su_label]

前の記事:
トップページにもどる
次の記事:

[su_label type=”info”]スポンサードリンク[/su_label]

[su_label type=”info”]ブログをメールで購読[/su_label]

メールアドレスを入力して「購読」すると、更新をメールで受信できます。

88人の購読者に加わりましょう

コメント

タイトルとURLをコピーしました