日本の近代化を支えた生糸産業『上武の生糸産業』を少しだけ学んでみました

★未分類★
★未分類★
この記事は約4分で読めます。

日本人初・グランドスラムの1つ全米オープンで優勝した大坂なおみ選手に日本中の注目が集まっています。法的には日米両国籍を持っていますが、テニス選手としては日本人選手として登録しているので「日本人初」となります。

あまりテニスに興味がない私でも、日本人選手の活躍には嬉しくなります。世界をまたにかけて活躍する人が増える中で「国籍や人種を重視するのはナンセンス」という意見もありますが、やはり”日本”、”日本人”という括りは根幹にあります。

2018年は明治維新から150年になる年です。150年前、人類の長い歴史を見ると、結構最近まで日本は鎖国していたと感じます。

近代まで閉鎖された国だった日本がどこにも属さず、独立した国家として世界の仲間に入り、主要国の1つともなっている背景には”良質な生糸を生産、輸出していたから”と考える歴史家も多いです。

群馬県富岡市の富岡製糸工場は世界遺産となるほど有名なものですが、埼玉県北部、特に深谷市は生糸の生産に深いかかわりを持っています。

生糸産業は自主独立の足掛かり

明治政府が近代化を進めようとしたとき、国際的に認められる価値のある商品は生糸だけでした。そのため、政府は外貨獲得の手段として生糸産業に力を入れていくことになります。

富岡製糸場で外国の侵略を防ぐ

富岡製糸場は日本の自国資本で作られた器械製糸場です。粗雑な商品の混入を防ぐため、大きな国営工場を作る必要がありました。

また、この”自国資本”というのがポイントで、明治政府は外国が資本提供するのを断って自分たちで工場を作りました。そのおかげで産業の植民地化は避けられたと考えられています。

但し、工場や器械のは外国の技術を導入しています。

富岡製糸場の器械製糸場としての規模は当時では世界最大の300釜(世界基準の2倍)、日本と外国の技術を融合して作り上げられています。

例えば、建物は木の骨組みに西洋のレンガを漆喰をセメント替わりにして摘んでいった「木骨煉瓦造」、器械も海外のものを輸入して日本人女性の体格に合わせて調整していました。

富岡製糸場の設立に尽力し、初代工場長になったのは埼玉県深谷市出身の尾高惇忠(渋沢栄一のいとこ)です。

工女は女性活躍社会の先駆け

富岡製糸場の設立にあたり、明治政府は次の3つの方針を定めました。

  • 外国の製糸器械の導入
  • 外国の指導者を招く
  • 日本国内から工女を募集し新技術を習得する

しかし、開国から間もない日本人にとって外国人は”怖いもの”であり、ワインを生血と間違えて「外国人は血を飲む」をいううわさが広がったため工女の募集は思うように進みませんでした。

そんな中で工女第一号に志願したのは初代工場長の娘・勇(ゆう)で、彼女に感化されて埼玉県北部から多くの子女が工女に応募しました(初期の工女の記録簿はなぜか埼玉県と長野県のものしか残っていない)。

工場稼働から約半年後、控除は約550人になります。華族、士族、平民と様々な身分の子女が工女となりました(工女の約3割が士族出身)。

工女たちは富岡製糸場で技術を学び、のちに様々な地方に派遣されて民営の製糸場に技術を伝播していきました。

生糸を運ぶために発達した鉄道

上部地方で作られた生糸や蚕種は第一等の輸出品目として横浜港に運ばれていました。

鉄道開通以前は利根川などによる舟運が主流で、利根川にはいたるところに河岸(港)がありました。今では舟運は廃れていますが、利根川沿いには河岸の名残や、”道路”として運用されている渡し船があります。

生糸産業の発展のため、横浜まで生糸・絹織物を運ぶのを目的として高崎線、両毛線は明治時代に開通しています。両毛線では足利・桐生・伊勢崎地域で作られた絹織物を運んでいました。

群馬の中心が前橋市の理由も生糸?

まず前橋市民には謝罪しますが、駅の規模で比較すると『前橋駅<<<高崎駅』です。前橋駅を降りると駅前はがら~んとしていて、とても群馬県の県庁所在地(県庁所在地=最も栄えている街)というイメージに合いません。

しかし、そんな前橋市は大量の生糸が集散する都市として賑わっていました。注目すべきは、前橋は日本の金融の重要拠点だったことです。

それが、前橋市に日本銀行の支店があることから分かります。

日本銀行前橋支店は関東地方初の日本銀行支店で(現在も関東地方では2ヶ所、もう1つは横浜支店しかない)、これが設立された背景には生糸の市があります。

この1点からでも前橋は日本の金融の重要拠点だったことが伺えます。

[su_label type=”info”]スポンサードリンク[/su_label]

コメント

タイトルとURLをコピーしました