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中学歴史の班田収授法を体感できる美里町の古代日本の法律の跡

写真の【十条条里遺跡】は美里町のなんの変哲もない道路沿いにポツンとあります。あまりに小さくて見落としがちですが、実際にいままでずっと見落としてきましたが、この遺跡は大化の改新頃の歴史の跡地でした。

大化の改新頃といっても、ここでドラマチックな出来事があったわけではありません。このころ施行された古い法律による地割の名残があった場所です。

地割制度に関する法律とは【班田収授法】、中学歴史で学ぶ法律です。

【班田収授法】とは戸籍・計帳に基づいて貴族や人民など受給対象者全てに等しく田を班給する制度(均田法)。班給された田(班田)で収穫された米は『租』として徴収されました。

班田収授法という言葉が初めて登場したのは、日本書紀にある646年の新年の詔のときの「初めて戸籍・計帳・班田収授法をつくれ」。しかし班給するためには戸籍・計帳の準備が必須だったため、班田収授法は初めて戸籍が作られた670年以降に発足したと考えられています。

646年から約50年後の701年、日本では史上初めて律と令がそろって成立した大宝律令が始動。このとき班田収授法は律令制の根幹となる重要な法律となりました。

なぜなら班田収授法は租税の徴収に関する法律。政府の財源に一番影響のある法律であり、令も律も財源がなければ政治はできないからです。

班田収授法では広い土地を6町(約654m)ごとに線を引いて碁盤の目のように区画整備。東西の線を「条」、南北の線を「里」とし、区画された土地は「〇条〇里」で表現されたようです。

班田収授法は902年の醍醐天皇による班田が最後に、この制度の維持が困難となり瓦解しました。約200年間の制度でしたが、姿を消してから1000年以上たったいまでも美里町町内には条里制の名残と思われる地名がいくつも残っています。

【十条条里遺跡】周辺には近代までこの時代の区画が残っていたようです。

また条里区画の大部分がほ場整備事業により姿を変えましたが、地中にはかつての畔(あぜ)や溝が残っていると考えられているようです。

班田収授法の初期~最盛期は6年に1回内容を見直していました(戸籍の編集、田の班給、亡くなった人の分の田の収公)。しかし奈良時代末期になると

班田収授法は弛緩してしまい「6年に1回」の見直しは「12年に1回」へと変更されました。そこからはズルズルと…

班田収授法の継続は難しくなりました。ちなみに班田収授法の継続不可により班田(公地)の所有権はずるずると上農民のもの、最終的には国衙領(国の役所の所有地、つまり“国司の領地”)になったようです。

班田収授法が弛緩した理由の1つに墾田永年私財法、「新たに開墾した土地は永遠にその人(開発領主)のもの」を保証する法律があります。この法律が施行すると開発領主による墾田が盛んになりましたが、墾田地の権利を保障する法律を100%信じてはいませんでした。

<開発領主の不安の種>

開発領主は“保証”を確固たるものとするため、中間管理職である国司の管理下ではなく、その上にいる中央の貴族や有力寺社に土地を寄進することで土地の管理人として権利を確保しました(寄進型荘園の始まり、開発領主が荘官となる)。

もちろん全ての開発領主が墾田地を寄進型荘園にしたわけではなく、国衙の庇護下が有利と思う開発領主は国衙のもとで在庁官人(郡司、郷司、保司)となりました。

時代が進むと武力で土地を奪おうと考える開発領主(在地領主)が登場し、彼らは武装するようになります。『武士』の誕生です。

こうして武士の時代が始まり、鎌倉幕府が生まれます。鎌倉幕府は奉公する武士たちを『御家人』とし、奉公の代償として彼らに『地頭』という職を与えて所有する土地の権利を幕府が保証しました。

ただし、「開発領主→地頭」となる者がいる一方で、戦功などから地頭に任命された者により土地の権利が侵食される開発領主(荘官・在庁官人など)もいました。室町時代にはさらに権利が侵食されて、やがて「墾田永年」は瓦解することになります。

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