2021年3月23日朝、エジプトのスエズ運河が座礁して航行不能の陥ったコンテナ船でふさがれ、貨物船の大渋滞が発生しているそうです(この事故はWikipediaに即記載されるほどのもの)。
船舶位置情報サイト「marinetraffic.com」を見ると、スエズ運河の両端に長い船の列ができているのが分かります。
スエズ運河を挟む地中海と紅海には海面の高度差がほとんど無いため、パナマ運河等と異なりスエズ運河には閘門(異なる水位の河川・運河・水路を船が通行できるように、門を閉じて一部の水位を調整することで船が通れるようにする装置)が設置されていません。
しかし航路は狭く運河を通行できる航路は1レーンのみ設定、船のすれ違いはバイパスや湖などの5ヵ所に限定されています。
スエズ運河庁によると2020年は1万9000隻近くの船舶が通過。1日あたり平均50隻ほどが通過する計算になります。
エジプトのスエズ運河庁(Suez Canal Authority)によると座礁した原因は突風を伴う砂嵐による視界不良。シナイ半島地域ではこの時期こうした砂嵐が頻繁に発生するそうです。
座礁した『エヴァーギヴン号』はパナマ船籍ですが所有者は日本の企業(運航は台湾の企業)。全長400メートル、幅59メートルの大きなコンテナ船です。
スエズ運河の通行止めによる日本の経済への影響
スエズ運河は地中海と航海を結ぶ約190kmの人工海面水路で、アジアと欧州の航路を結ぶ世界的な物流の要所。
世界の海上貿易の10%がスエズ運河を利用しているといわれています。
日本では自動車の輸送に利用することが多く、自動車の他には機械や精密機械を運んでいます。
現時点では未だ経済への影響が出ていませんが、通行止めが長期化すると日本の経済に悪影響が発生する可能性が十分にあるそうです。
スエズ運河運航不可の損失は1日あたり約1兆円
今回の事故による海上交通の停止では1日あたり約96億ドル(約1兆円)相当の損失が出ているそうです。
この数字はロイズリスト(海運関連情報サービスの老舗)の評価によるもので、西航の交通が1日当たり約51億ドル相当、東航が約45億ドル相当とのこと。
参考:スエズ運河の大型船座礁、1日当たり1兆円規模の海上交通停止か (msn.com)
通行料が高くてもスエズ運河を通行する理由
スエズ運河の通行料金は平均で1隻約30万ドル(約3200万円)。スエズ運河の通行料金はエジプトの大きな収入源です。
高いと思いましたが、スエズ運河を使わないと日本から欧州までの運行日数は10日間長くなる(航行距離は約9000km長くなる)。
コンテナ船では燃料と人件費で1日1,000万円ほどの経費がかかるのでスエズ運河を通った方がお得だそうです。
ロシアが北極海航路の安全・安定性をアピール
今回の事故を受けてロシアのエネルギー相は2021年3月29日にロシアの北極海航路(NSR)とエネルギー・パイプラインの安全性と安定性をアピールしました。
「これらは非常に安全で、運輸コストの点で競争力がある上、他の代替ルートと比べて信頼できる」
スエズ運河事故で北極海航路に価値=ロシア・エネルギー省 (msn.com)
ロシアはスエズ運河の代替ルートとしてNSRの利用増加を見込んでいるそうです。
北極海を通るNSRは欧州⇔アジアへの航路であり(ベーリング海峡からシベリア沿岸を通りヨーロッパに至る航路)、スエズ運河を通る南のルートよりも4000海里短縮されそうです。
今回の事故を受けてロシアはNSRを通る貨物の貨物量は2024年までに年間8000万トンに拡大すると見込んでいます(昨年の貨物量は3300万トン)。
スエズ運河の歴史はイギリス対フランス
運河は航行期間を大きく短縮して世界の貿易に大きく貢献しています。
1873年には大日本帝国の岩倉使節団もスエズ運河を航行し(帰路)、当時の運河の様子が記録されているそうです。
開通当時は世界的に劇的な変化をもたらしましたが、ヨーロッパ諸国にとっては経済の他にもアフリカ諸国を植民地化しやすくなったという効果もあったそうです。
当時スエズ運河を多く通ったのがイギリス籍の船(全体の約8割)。
大日本帝国に駐在したイギリス帝国外交官ミットフォードもスエズ運河を通ったそうです(セレモニーで通った船を除けば自分たちの船が最初にスエズ運河を航行したと回顧している)。
こんなだからスエズ運河の建設にイギリスは関わっているだろうと想像していましたが、実際にイギリスはずっとスエズ運河建設反対派でした。
運河が欲しかったが何もしなかったイギリス
運河構想が出始めたのは1830年頃。
この頃アジアへの貿易が盛んだったイギリスでは輸送機関を短縮するために運河を求める声が多くありましたが(実際に航路建設に関する報告書も提出)、イギリスが運河に関して特になにかすることはありませんでした。
イギリスが注目したのは陸路。
イギリスの海軍士官だったトーマス・フレッチャー・ワグホーンはスエズ陸峡を繋ぐ馬車輸送を整備して輸送距離を約半分に短縮し(約18,000km以上から約9,700kmに短縮)、蒸気船で約3ヶ月かかった郵便航路を35~40日に短縮しました。
運河を作るために行動を起こしたのはフランス
運河に注目したのはフランス。
フランスの冒険家リナント・デ・ベレフォンズはシナイ半島を調査して運河建設の計画にあたり、多くの調査結果から地中海と紅海には海面の高度に差がないということが広く知られるようになり運河建設の気運が高まりました。
ここで焦ったのがイギリス。
イギリスは自分たちの影響力が大きいインド貿易が運河によって脅かされることを懸念しました(その一方でアレキサンドリアからカイロ経由でスエズに至る鉄道の敷設を計画)。
そんなイギリスの不安を煽るように運河の建設はフランス主導で進み、1854~56年にはスエズ運河の建設で著名なフランスの外交官で実業家のフェルディナン・ド・レセップスが利権と開通後99年間の事業権も獲得しました。
1858年にスエズ運河会社が設立され、現在のポートサイード沿岸で運河の建設が始まりました。
イギリスは一貫して運河建設に反対
建設(掘削)はエジプト人の強制労働(コルヴェ)も使われながら約10年間かかりました(常時使役3万人、様々な国からのべ150万人がこの建設に従事したという説あり)。
運河建設反対のイギリスはこのコルヴェに目をつけ、運河建設における労働者の扱いは禁止されている奴隷のようだと公式に非難(武装化ベドウィンを送り込んで労働者の反乱を煽る様なこともした)。
これに怒ったレセップスもこれの数年前にイギリスがエジプト鉄道を建設したときにも同様なことがあったと非難の手紙をイギリス政府に送り付けました。
技術や財政的な問題に加えて政治的な問題を克服しつつスエズ運河は開通。
開通当初はスエズ運河会社の国際的評判はいまいち、さらに運河建設費は予想の2倍だったなどでスエズ運河会社は運河開通の頃は財政難でしたが、ベレフォンズの工夫と尽力によりスエズ運河は海上交通の要所として今も多くの国の船に利用されています。
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