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美里町にある遠藤兵内の墓と江戸時代の百姓一揆(中山道伝馬騒動)

person with his hand filled with rocks

Photo by Alan Cabello on Pexels.com

美里町には古い歴史が残っています。

先日は『班田収授法』の名残りを見てきましたが、今回は江戸時代に中山道沿いで起きた大規模な一揆(中山道伝馬騒動)の名残りを見てきました。

中山道伝馬騒動の首謀者のひとり、関村(いまの美里町)の役人だった遠藤兵内の墓です。200年以上前からあった関観音堂地内に、いまは廃れて「廃寺?」と思うような場所にひっそりとあります。

いまは廃れてしまった小さなお堂(周囲には比較的新しい墓石もあったりして)

中山道は江戸時代に整備された『五街道』の1つ。整備された街道は他に東海道・日光街道・奥州街道・甲州街道です。

一揆の原因になったのは宿場の仕事の1つ・伝馬。

伝馬とは馬を使って手紙などを宿場から宿場へリレー方式で運ぶことで、このシステムは大化の改新時代からありました。そのため宿場町には宿などの休憩施設はもちろん、リレーする馬や人が配置されていました(埼北エリアには熊谷宿、深谷宿、本庄宿があった)。

人員や馬の確保は公務でしたが、おそらく継続に無理があったのか、幕府が人や馬の補給ができない場合は宿場町周辺の郷や村が代わって整えるという制度ができました(助郷制度)。

今でいう“地方に丸投げ”。費用も丸投げ、人や馬を確保するのにかかる経費はすべて助郷負担となりました。

もともと中山道沿いの地域は税が重め。中山道沿いは幕府直轄領が多く、北武蔵の百姓には本年貢以外にも水利普請(=河川の水を利用するための設備を作ること)、鷹場管理(=鷹を放つための狩猟場の管理)などの公費を負担していました。ここにきて助郷負担増……百姓一揆(中山道伝馬騒動)が北武蔵の百姓を中心にして起きました。

一揆とは幕府に対する抗議運動(暴動)です。

組織化する集団によって「〇〇一揆」と言われ、百姓一揆の場合は百姓が組織化。百姓一揆のひとつである中山道伝馬騒動では負担増に反発した村役人と百姓が熊谷宿などに集結して蜂起しました。

蜂起して1年ほどで騒動は街道沿いに広がり、武蔵・上野・信濃および下野の一部にわたって発生。この騒動には10~30万人が参加したといわれています。

江戸の市中まで騒動が拡大するのを恐れた幕府は助郷の追加負担を取り下げて鎮静化を図ったものの、一揆はエスカレート。暴徒と化した一部の人が街道沿いの富農を襲撃する「打ちこわし」を起こし中山道の機能はマヒする事態となりました。

最終的に幕府側は多数の村役人を拘束して処分。

遠藤兵内はこのとき処刑された役人です。現在の美里町である関村の名主だった遠藤兵内は首謀者として獄門に処され、それから2年後に地元の人は義民・遠藤兵内を弔うための供養塔(宝篋印塔)を関観音堂地内にたてました。

美里町は平成になって200年以上経って老朽化した供養塔を大規模改修(埼玉県ふるさと創造資金の補助)。このとき供養塔の内部が明らかになり、中には次のようなものが詰められていたようです。

陀羅尼とは神仏や宝物への帰依(=その力を信じて頼ること)を宣言し、それらに呼びかけ・賛嘆・願い事を書いた長い呪文。陀羅尼(ダラーニー)には「記憶して忘れない」という意味があるそうです。

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