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万葉集の影響?新元号で奈良や富山が注目

新元号「令和」が万葉集に所以するということで、万葉集ゆかりの地である奈良県や富山県に注目が集まっています。

【奈良県】

万葉集の歌の時代に都があった場所。万葉集の中の歌人には貴族が多く、彼らの生活をうたった歌には奈良県に今も残る自然が詠みこまれています。

【富山県】

万葉集を編纂した大伴家持(諸説あり)が最も歌人として充実したときを過ごした場所。万葉集の中には越中国府時代の家持の歌が多くあります。

私が在学していた頃の富山大学には「万葉集」の授業がありました。一般教養なので文理問わず多くの学生が受講していました。

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「万葉集」は現存する日本最古の歌集

” Manyosyu(万葉集)” is oldest Anthology in Japan. That is compiled in the late 6th century to the late 7th century.

万葉集が編纂されたのは7世紀後半から8世紀後半です。「編纂」とは<多くの材料を集め、またはそれに手を加えて、書物の内容をまとめること>です。”編纂されたもの”で身近なのは辞書で、辞書は多くの言葉の意味や用法を集めて一冊の本にまとめられています。

万葉集には約4,500首が収められている

There are about 4,500 poetries in “Manyosyu”. Poetes are various, a wide range of people from the emperor to the general public.

辞書は言葉を納められていますが、万葉集は約4500首の歌が収められています。これらの歌の作者は天皇から農民までと、身分や立場に限らずとても幅広いです。

都人以外にも九州や東北に暮らす人の歌まである

Poetes lived not only in the city but also in Tohoku and Kyushu(recorded as Azuma-uta or Sakimori-uta). The city is current Nara Pref..

In the late 7th century, the center of Japan’s politics, culture and economy was in the Kansai region, and the capital was in present-day Nara prefecture.

万葉集に収められている歌は都(現在の奈良県)に住んでいた人たちだけでなく、九州や東北に暮らす人の歌もあります(東歌や防人歌として収録)。

東歌(あずまうた)は東国地方の歌のことで、今の長野県・静岡県から関東地区、東北地方の南部までに伝わる歌を指します。防人歌は東国から徴収された九州沿岸を警備する兵士たちの読んだ歌です。 貴族の歌に見られる派手な技巧はあまり用いられず、素朴で率直な歌いぶりが特徴です。

新元号の「令和」の元になった梅花の歌の序文は大宰府(現在の福岡)の歌であり、福岡県は新元号所縁の土地として喜びの声をあげています。他にも九州沿岸の警備にあたった防人(さきもり)の歌が万葉集には収められていて貴重な史料となっています。

万葉集は大伴家持が編纂した説が有力

There are various theories in the establishment of “Manyosyu”. The most powerful theory is to be edited 大伴家持(Ootomo no Yakamochi) finally.

万葉集の成立に関しては「勅撰説」「橘諸兄編纂説」「大伴家持編纂説」「橘諸兄・大伴家持2人共撰説」などがあります。最有力説は大伴家持編纂説ですが、大伴家持一人でまとめたのではなく何人かの編者が巻をまとめて最終的に大伴家持が20巻にまとめた説が妥当とされています。

※勅撰:天皇や上皇の命令(勅命)によって詩歌や文章などを選んで書物を作ること

橘諸兄は万葉集が編纂された奈良時代の皇族で、臣籍降下して橘姓になりました。万葉集には7首収録されています。

大伴家持は奈良時代の貴族で三十六歌仙のひとり

Yakamochi was nobility of the Nara Period, and very good poet ( a member of “36-kasen(三十六歌仙)”.

大伴家持は奈良時代の貴族で三十六仙の1人に選ばれるほどの歌の名人です。小倉百人一首でも役職名をつけた「大納言家持」で登場します。

大伴家持の歌は万葉集全体の1割を占める

Occupies 10% of Yakamochi’s poems contained in “Manyousyuu”.

万葉集に収められた約4,500首のうち、大伴家持の歌は全体の1割にあたる473首あります。

大伴家持の確認できる歌歴は27年間で、万葉集に収められている歌のうち5割の223首が越中国(現在の富山県)で過ごした5年間によまれた歌です。

富山県が万葉集ゆかりの地と言われる理由

Yakamochi was appointed governor of “Ettyu-no-kuni(越中国)” at the age of 29. He left many poems during this time.

越中国は現在の富山県(Ettyu-no-kuni is current Toyama Pref..)

大伴家持は29歳のときに現在の富山県である越中国の国守に任命されてきました(越中国府は現在の富山県高山市に置かれた)。慣れた都から離れて暮らす寂しさはあったものの、越中守在任のこの期間は官人として歌人として最も充実していた期間と考えられています。

万葉集に載せられた、越中国守時代によまれた歌は越中古代を知る上でかけがえのない史料となっています。

「令和」が新元号に選ばれたこともあり、富山県は高岡市を中心に町おこしのチャンス考えています。大伴家持がいた越中国の国府は、現在は勝興寺となっています。境内の本堂横には、大伴家持が詠んだ万葉歌碑が建てられています。

― あしびきの 山の木ぬれの ほそ採りて かざしつらくは 千年寿ぐとぞ ―

万葉集の恋の歌は現代でも理解できる

The poems in “Manyosyu” can be classified into three, “Soumonka(相聞歌)”, “Banka(挽歌)” and “Zouka(雑歌)”.

万葉集に収められた約4,500首の歌は、時代や地域で分けて全20巻に収められていますが、歌の種類で3つに区分することができます。

恋の歌は現代の日本人や外国の人も理解しやすい

“Soumonka” is poetry about love, so it is relatively easy to understand.

世界共通である恋愛に関する歌は現代の日本人にも理解しやすい歌です。外国の人が万葉集を詠もうとした場合も恋愛の歌が理解しやすいです。

男性が女性の元に通うという当時の風習に注意

There are expressions that I want you to come to see you in “Manyosyu”. Becouse, There was “Kayoi-Kon(通い婚)” in that Japan.

Kayoi-Kon: The wife of the upper society was always in the room, and the husband went to see the wife.

恋する女性、特に貴族の女性の詠んだ恋の歌に「会いに来て欲しい」という表現がとても多いです。

その理由は、万葉集の歌が詠まれた時代は女性のもとに男性が通っていたのが普通だからです。求婚前はもちろん、結婚しても奥さんは旦那さんは同じ屋敷内の別邸で暮らし、そこに旦那さんが通っていました(通い婚)。

当時の女性は「会いに来てくれることは自分への愛情のある証拠」だと考えています。現実の世界はもちろん、夢の中でもそう思っています(夢に出てくるのは貴方が私を想っているから)。

万葉の時代はラブレター(恋文)が飛び交っていた

In the upper society, women do not show men their faces until they get married. So, men judged the good and bad of women based on music talent, poetry talent, and character cleanness.

万葉の時代の貴族の男性は結婚するまで相手の女性の顔を見れないので、女性の良し悪しの判断は音楽の才、詩の才、そして美文字でした。

「あの屋敷からめっちゃ上手な琴の音が聞こえる」と思った男性は屋敷の下働きの人などから女性についての情報収集をして詩を作り、季節の植物の枝に詩を書いた紙を結んだものを下働き経由で女性に届けていました。

女性は詩や文字から相手を判断し返事を書きます。男性はもらった手紙に書かれた歌や文字から女性の良し悪しを判断しました。

万葉集の時代は一夫多妻制であることに注意

現在の日本は一夫一妻制ですが、日本が実質的に一夫多妻制となったのは大正天皇が即位した頃からです。近代キリスト教国的な民法の施行により、明治時代から一夫多妻制の風潮はなくなってきました。

つまり、日本が一夫多妻制を導入してから100年とちょっとしか経っておらず、万葉集の時代はもちろん、日本では上流社会において一夫多妻制の側室制度がありました。「室」とは妻のことで、男子の跡取りを産むために正室は1人、側室は複数人いるのが普通でした。

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