横浜の外国人居留地が中華街になった歴史

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横浜の中華街に行ってきました。

入口に立てられた牌楼(中国の伝統的建築様式で建てられた門)を過ぎれば赤・金・黒に染まった世界になります。

「(横浜って)外国人居留地だよね」

中華街を散策したあとは海の方を散策しました。横浜は日本が開国したときに発展した港町、異国情緒が漂います。

「なんで中華街?なんで中国人限定?」

「鎖国中でも開いていた長崎のは解るけど」という旦那の言葉をきっかけに、欧米人が多いイメージがある外国人居留地に中国人中心の街ができた経緯を調べてみました。

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江戸幕府は対外戦略として約240年間鎖国し続け、四口(外国に向けて開かれた4つの窓口)を除き日本は他国の文化に影響されることはありませんでした。
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長崎口…対オランダ、対中
対馬口…対朝鮮(対馬藩がほぼ独占)
薩摩口…対琉球王国(薩摩藩がほぼ独占)
蝦夷口…対アイヌ(松前藩がほぼ独占)

鎖国期間中の中国との外交は長崎が窓口でした。長崎の中華街の存在理由に納得できます。

四口は外交相手に近い港であるだけでなく、江戸から遠かったので開港しても江戸幕府は安全だと考えられました。江戸幕府としてはペリーに開港を迫られるまで、江戸に近い横浜を開く予定はなかったでしょう。

幕府の希望むなしく横浜は開港され、横浜には外国人が多く暮らす『外国人居留地』が作られました。当時は欧米人が多くいた外国人居留地ですが、そこには欧米の大使館の使用人や買弁(ばいべん)の中国人もいました。

『買弁』とは中国企業・銀行の海外進出や貿易をサポートする中国人商人で、みな一様に外国語が堪能で人脈・政治的センスがあったようです。

外国人居留地の中国人は広東省出身者が多く、横浜には上海や香港(当時はイギリス植民地)との間に定期船航路を開設されます。これで中国人の数はどっと増えました。
  
彼らは居留地の一角に関帝廟(三國志の英雄の一人・関羽を祀る。そろばんを発明したという俗説がある関羽を祀って商売繁盛を願う)、中華会館、中華学校などを作り、こうして中華街ができました。しかしあくまでも外国人居留地の一部の存在です。

中華街が形成されて約30年後に日清戦争が勃発して多くの中国人が祖国に帰国しましたが、戦争が終結すると日本にまた多くの中国人がやってきます。

この頃の外国人居留地にはまだ日本人や欧米人が営む店が多く並び、中国人の店は欧米人の店の半分ほどでした。

欧米人が中心だった外国人居留地が中国人中心になったきっかけは関東大震災です。この震災で外国人居留地のある一帯は瓦礫の山となりましたが、約10年で復興しました。そしてこの頃には中国人が中心の街になっていたようです。

第二次世界大戦後の復興期には横浜港には賑わいました。中国は戦勝国であり、横浜には中国からの物資が大量に届いたようです。

終戦から約10年後、この街の入口に牌楼が作られました。この門の上には『中華街』と書かれた看板が掲げられました。こうして『南京町』や『唐人街』と呼ばれていたこの一角は『中華街』と呼ばれるようになったようです。

世界中に中華街がある理由

理由は様々ですが、異国に移住する人は世界中にいます。そんな中でも比較的中国人は一定の地域に集中し、中国人街を作ります。ハワイに移住する日本人は多いですが、日本人街なんて聞いたことはありません。

これは日本人と中国人の気質の差、歴史的背景による気持ちの違いがあります。

日本人の場合、基本的には“郷に入ったら郷に従え”で、そこに自分の骨を埋めるつもりでその国の文化に染まることを良しとしています。一方で中国人の場合、良くも悪くも彼らは中国の文化を尊重し、そこに自分たちの理想郷を作ろうとします。

日本人から見ると「我が強いな」と思う中国人の性質ですが、彼らは色々な統治者の下で様々な文化を形成してきた歴史があります(新たな統治者は基本的に外国人。そのたびに思想や文化は一変してた)。ちゃんと自分を持っていないとわけが解らなくなるのです
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我が強いから中国全土に小さな国がたくさんできた、という考え方もできる

一方で日本の場合、統治者が変わっても新しい統治者はやっぱり日本人でした。価値観が違っても基本は似ており、過去をふまえて発展してきた歴史があります。“新たに~”とか“一新して~”といった気概は基本的にありません。

“新天地”と言っても精神的には中国人のままの彼らは“海外に進出する”ということに日本人ほど難しく考えない傾向があります(ハードルが低い)。そんな彼らには『三把刀』という考え方があります。
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3つの刀(把)とは、ハサミ、包丁、剃刀のこと。つまり裁縫、料理、理容の職人ならばどこでも生きていける。

こうして世界中に進出した中国人はその地である程度の生活を築くと、親族や同郷者を集めて互いにサポートしあう『互助会』を形成します。こうして新たに人が進出しやすい環境が作られます。

横浜の中華街には中国の地名が付けられた通りがたくさんあり、そこで暮らすのはその地域出身者が多いです。

こうして世界中に華僑(中国籍をもつ漢民族)は拡がり、中華街は世界中にあるのです。

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